NOVOは加害者の更生のための教育プログラムーー批判を契機としたその意味と内容の説明

 

ネットで、NOVOとは異なる考えの「加害者更生のカウンセリング」ブログをみつけました。これを書いているDV加害者専門カウンセラーの尾畑さんがもっている「誤解」や「偏見・まちがい」をここで指摘することで、NOVOの加害者プログラムの内容や性質を説明できると思うので、この尾畑さんのブログについて意見を述べておきます。

 

対象ブログ:「福岡・佐賀の心理カウンセラー、尾畑心湖のブログ」

1:「DV加害者はカウンセリングで変われます」 2020-01-28 20:00:53
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DVリバウンドは一人もいません 2021-01-08 19:00:39

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DVは心の問題?

 

尾畑さんは、そのブログのなかで、DV加害者の更生に特化した心理カウンセリングを行なっているとし、DVについて「DVは心の問題です。DVという問題行動は心(感情)が引き起こしているのです。ということは心の問題が解決すればDVはやめられるのです。」と書いています。

似た記述として、「DVという問題行動は心(感情)が引き起こしているのです。」「「心」は学習して変われるものではありません。」「DVという問題行動は、感情レベルで起きている」とも書いています。その主張の意図するところは、DV加害者へは教育ではなくカウンセリングで関わるべきということのようです。感情と考え方を対立的にとらえたうえで、感情の扱いだけでいい、それは教育(学習)とは別物という主張です。それをベースに、NOVOやアウェアのような加害者更生教育プログラムを批判するものとなっています。

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まず、この「DVは心の問題」「心の問題が解決すればDVはやめられる」という考えについて意見を述べます。

人間の言動には精神活動が付随しているので、すべてにもちろん心(精神)はかかわっていますが、同時に人間は社会的な存在であり、経済や政治や社会慣習や社会的な倫理、集団、組織、法律などの諸制度、社会的な意識、他者のかかわりなどの影響もうけています。あとでも述べますが、教育とかジェンダーという社会構造と切り離すかのような「心だけの問題」にするのは、狭すぎる意見ではないでしょうか。

DVの背景には様々な原因・要因があります。諸要因が絡み合っている問題もあります。社会全体の家族単位的な制度設計、家族単位的な意識、社会全体にあるジェンダー意識、ジェンダー構造などはDVに大きくかかわっています。制度と意識は相互作用で影響しあい支えあって、再生産されていきます。ジェンダー秩序を含む主流秩序は制度と意識、人々の実践によって日々再生産されたり、一部変更されたりしています。心理学にも重要な貢献がありますが、社会科学においては、これまでに社会構造と心理が切り離されて「心だけの問題にすること」、言い換えれば「個人の意識だけを問題にすること」への批判(限界、誤り、問題の指摘)が数多く積み重ねられてきました。

 

したがって、尾畑さんの「DVは心(感情)が引き起こしている」といって社会構造・社会集合的な実践などを入れない議論は不十分なものといえるのではないでしょうか。

心理と社会活動・制度が関連しているのは当然で、例えばパワハラやセクハラやいじめで不当解雇されるなどで心理的に苦しくなる時、心のケアだけでなく、ユニオンに相談し会社と団体交渉して解決することが精神的苦しさの解消には必要です。

DVがらみの一例をあげれば、社会の男女賃金格差・管理職就任の差、非正規雇用差別、男性の育休とりにくさなど家族単位の制度設計などが家庭内の対立・DVをもたらしやすくしています。職場で賃金や雇用形態や昇進で女性差別があったり、セクハラがあることで、パートナー関係において女性が働き続けられなかったり、夫との力関係で弱くなる、心身の調子を崩すということがあるときに、DV被害を受けている女性には心のケアや傾聴だけでなく、性差別やジェンダーの理解、実践的な解決に至る相談先や闘い方や対処の仕方の伝授もいります。

夫が職場のパワハラで心身の調子が悪くなったりストレスがたまって、家でイライラを妻子にぶつけているとき、個人加盟ユニオンなどへの相談を使って職場問題への適切な対処をするとともに、そのしんどさを家族にぶつけていいと考えている問題を取り扱い、考え方を変えて、非暴力・シングル単位観点などによってDVではない関係を作ることを学ぶことが、解決には有効です。夫がジェンダー意識に囚われて妻に家事を全部押し付けていて平気な時に、ジェンダーやシングル単位について広く学ぶことで役割分担ではなく、基本は家事を自分がするのは当たり前で、そのうえでの協力だとわかってきて言動が変わります。ジェンダーの意識や家族単位の意識は社会の構造とつながっているので、その意識を扱うことやその意識の変更は、「感情を扱う」ことだけではないわけです。

 

社会の問題だけがDVの唯一根源の原因といっているのではなく、絡み合っている問題の一側面として、そうした女性の経済的弱さなどが「DVからの離脱、反論、離婚など」を困難にしているという場合がある(関連性がある)という話です。あるいは社会全体のジェンダー秩序がDV加害男性の「俺が稼いだ金だ、俺が買った家だ」という考えをもたらし、怒りの感情をもたらしたりしています。失業や貧困、子育てのむつかしさ、受験重視の社会というある種の社会状況が、家庭内の心理的な緊張をもたらしやすくしています。心や感情は社会の状況と無関係にあるのではないのです。女性に非正規労働が多いこと、配偶者控除などの家族単位的制度、第3号被保険者や夫婦同姓しかない状況などをDVと無関係とみるのではなく、そうした性差別を生み出す構造に巻き込まれないスタンスを得ていくことによって職場におけるセクハラやパワハラ、家庭や恋人間のDVも減っていくという面があるのです。

しかし、それだけではないので、その他さまざまな改革がいります。制度変革も必要ですが、意識変革もいります。しかしその個人の意識変革も、制度を変えること、社会全体の風潮を変えることによって大きく進むのです。そこを見ないのは、あまりに社会問題に対する認識が狭すぎるといえます。

以上からも「DVは心(感情)だけの問題」と言い切ることには問題があると思います。

 

◆意識や心理を扱うことは「感情を扱う」ことだけではない

 

DVに対処する、加害者の言動を変えるには、意識や精神や心理を扱うことが必要なのは当然ですが、意識・精神の中には「考え方(思考)」「ジェンダー意識」「家族単位の意識」「暴力容認的な意識」などがあり、そこを変えていくようなアプローチがいります。意識という広い概念のなかに、感情も考え方もあります。感情だけを扱うといって、「考え方」というものを扱わないのは、心理的なアプローチとしても狭すぎます。

なお、心理学系にもいろいろありますが、個人の感情や個人的意識だけを問題にすることへの批判は、心理学内部にも外部にも多くあります。個人心理療法や個別のカウンセリングだけでいいというわけではありません。社会心理学は、社会的要因の個人への影響など、社会的環境のなかで,個人や集団がどのような条件のもとでどのような行動を示すかについて調べるものです。精神の諸活動や心理的諸要因に注目しながら、社会現象の理解と解釈と説明を試みようとする心理学的社会学もあります。

 

臨床心理学と心理臨床学の対立もありました。心理職を公的資格にするかどうかでの対立があり、日本臨床心理学会には資格否定派が残留し、資格制定派は、河合隼雄を看板に,1982年,臨床心理士資格の母体となる日本心理臨床学会を立ち上げました(1988年の日本臨床心理士資格認定協会設立)。前者は、心理と社会の関係重視、後者は個人の心理重視の側面があったようです。さらにその後、日本臨床心理学会も資格容認になる中、そこに疑問を持つ者たちが1993年,日本社会臨床学会を立ち上げました。

そこで言っていることは、「社会・文化の中の「臨床」という営みを点検・考察し、さらにそのあり方を模索することを目的」としていく立場、差別や優生思想の問題、資格・専門性を疑う視点等にこだわりながら日常を暮らしている人々が、今の時代を生きる人間の悩みや想い、その背後にある社会の矛盾や問題を自由に考え合える場とする立場ということです。金儲けや商売、権威化、特権の独占化も含めて、心理系にも考え方の幅があるということであって、固定的に一つの立場(日本心理臨床学会系)だけをカウンセリングだというのは視野が狭いといえます。このあたり、小沢牧子『「心の専門家」はいらない』(洋泉社・新書y2002年)が参考になります。

 

ロジャースの考えをベースにするものは多いですが、それ以外もありますし、心理学は多様です。

また近年確立された「公認心理」は、実際はともかく方向性としては、臨床心理の個人の心対応の狭さを超えて、社会資源のことをよく知ったうえで心理系相談及び助言、指導その他の援助をしていく、つまりより実際の社会的援助とつながっている援助アプローチとみることができ、狭く個人の内面の心(特に感情)だけの問題に限定していません。現実に向かうなら当然の帰結と言えます。

 

◆「思考(考え方)を変える」のは間違い?


次に尾畑さんは「しかし、DVを心の問題として認識している方は少ないようです。加害者更生プログラムを行なっている方でもDV加害者に必要なのは心や感情を扱うことではなく思考を変える教育だと はっきり仰います。」といって、「思考を変えること」と「心や感情を扱う」ことを対立させて、思考を変えることが重要ではない、と批判します。教育ということと「思考を変える」とを一体化し、それと「感情を扱う」ことを対立させるとらえ方です。

しかしこれも非常に特異な考えで、NOVOも感情を扱うと同時に、ジェンダー意識などの「考え方」「思考」を扱います。考え方があっての感情だというつながりの理解は、認知行動療法系では多く認められていることであり、まさに心理学系のアプローチの主流であり、心・感情と「考え方」をここまで切断するのは非常に例外的なスタンスです。

 

考え方も精神的な活動の一部です。認知行動療法自体を全否定するのではなく、それも使って 感情への対処も入れて、加害者更生教育をしていくというのが、NOVOのスタンスです。そして考え方を変えることで怒りの感情が起きにくくなるというのは非常に説得的な一つのアプローチと思うので、どうして尾畑さんは「考え方」を扱うことをここまで否定なさるのかわかりません。しかも考え方を変えること≒教育と言って、教育を敵視するのは、DV加害者の更生を実際的に考えていくうえで不要ではないかと思います。、過剰に感情を扱うことと教育を対立させています。

NOVOは認知行動療法的なアプローチで必要十分と言っているのではなく、アンガーマネジメント系でも広く使われている学びを、NOVOでも使って、自分が怒りやすいことの背景には、自分の考え方(ものごとのとらえ方、受信機、自動思考)がDV(広義暴力)につながる怒りをもたらしやすいものになっている、それにたいして考え方(思考)を変えていけば、怒りという感情も起きにくくなるという、きわめて広く認められているやり方を実践しています。

 

 感情と思考の関係は多様ですが、広く認知行動療法的なアプローチは有効と認められているのではないでしょうか。尾畑さんも心理系の学習をされたと思うのですが、「説教・指導・アドバイスではなく、聴くことで、相手が自ら気づいたり整理していく」というような、それ自体は非常に大事な傾聴の視点を、「認知行動療法批判」にまでしてしまっている点が誤りだと思います。

このように「考え方」をあつかうことを一面的に批判するというのは、かなり変わった主張と言えます。加害者が変化するためのかかわりとしては、NOVOは特定の一方法だけでなく、多様なやり方を使っていくという立場です。

 

◆効果はあるのか―――「教育プログラムでは効果がない」? 尾畑さんのところでは全員に効果がある?

 

尾畑さんは「アメリカでは、加害者更正プログラムを行って教育しても3年後を調査したら、わずか3%の人しか改善していなかったそうです。」と書いてアウェアやNOVOなどの「教育プログラム」に効果がないように言われます。

まず、この主張の根拠が不明です。加害者プログラムについては、すでに様々な研究や調査がありますし、米国にも非常に多くのプログラムがあるので、このような紹介の仕方をする時点で恣意的と言えます。

そしてそもそも「効果がある/ない」ということをいうこと自体が非常に困難なのです。24時間家庭内を録画してそれを数十年も見て検証するようなことができるならかなりのことが言えますが、それは不可能です。再逮捕で判断するのか、身体暴力の再発(けが)でみるのか、精神的なDVならどの程度のもので再発とみるのかなど、問題は多くあります。パートナーへの聞き取りでするのか。少なくとも加害者本人の、プログラム受講後の意識を聞く程度では全く「本当に効果があったかどうか」は判断できません。

そして過去の研究でも、現実を見ても、加害者プログラムを受講しても効果が限定的であるのはほぼ間違いないといえます。(それはNOVOに通っても効果がないということを意味しません。)

 

したがって、「私のところのプログラムでは●割が改善しました」というのも危険と思います。プログラムを受講したということで「修了書」「卒業証書」のようなものを出すのもあまり意味はないといえます。まして、尾畑さんがブログ(「DVリバウンドは一人もいません」)で書いているような「リバウンド、つまり再びDVをしたひと」は一人もいないという主張は、客観性があまりにない危険な主張と思います。

『DV加害者が変わる』という著作の中で、執筆者たちはより幅広い枠で設計した自分たちの解決志向アプローチによって、かなりの効果が見られたといっていますが、それも説得力は十分ではありません。明確に定期的に数年後まで第3者がみているわけでないので、効果をいうこと自体が危ういのです。

 

同じパートナーとの関係が続いている場合に、パートナーがどう評価するかは一つの指標とはいえますが、別居や離婚も多く、パートナーが評価できないケースは多いといえます。またパートナーがDV支配をされて評価にゆがみが生じる危険もありますし、数年後に再発するかもしれないという問題は常に付きまといます。DVの様々な種類と程度(グレーゾーン問題)ということを考えると、身体暴力だけで判断するのは間違いであり、再発したかどうかを白黒明確に言うのは困難です。一番の問題は、継続的に客観的な調査で数年にわたり観察し続けることが非常に困難ということがあり、それをしていないのに「効果があった」というものは危ないといえます。

 

尾畑さんは「DV加害者で私からカウンセリングを受けたクライアントさんの中に、再びDVしたという事例は一件もありません。」「DV性格が改善できたことを実感するまできちんとカウンセリングを受けた方で再びDVをしたという方はお一人もいません。」「リバウンド、ゼロです。事実です。」「私のカウンセリングを最後まで受けきちんと終了という形をとられた方でその後、またDVしたという話は一度も聞いたことがないということです。終了の日には「少しでも不安なことなどあったら必ずお越しくださいね」「決して放置しないでくださいね」とお伝えしています。その上で「またDVしてしまいました」や「またDVしそうで不安になりました」などという報告は一件もないんです。」といっていますが、

これは、カウンセリングを受けた人の数年後までちゃんとフォローしていないことを示しており、「DVしたという報告がない」ことから「リバウンドがない」というのはあまりに非科学的な主張と言えます。

先にも言いましたが、プログラムが終了した時点での加害者本人の意識を調べても、本当の効果はわからないといえます。その時には「改善」がみられるのはある意味あたりまえであり、それが実際の生活、特に被害を受けた家族との関係で実際に改善があるか(被害者の安全・安心。自信・自由・成長がもたらされたか)、被害者に聞いているか、それが持続するかどうかが大事なのです。

 

NOVOでも50回以上通ったような人にはおおむね一定の改善はみられますが、パートナーにとっては「まだまだ」ということは多くありますし、「今後も大丈夫」とも言えないと思っています。尾畑さんのように「リバウンドはない」といいきる姿勢自体に、DVへの理解の浅さが見て取れます。そもそも「カウンセリングを最後まで受けきちんと終了という形で受ける」ということ自体があいまいです。なにをもって「最後」「終了」と言えるのか。加害者の意識変化か、被害者の判断か、回数か、カウンセラーから見た変化の様子なのか。再発しても、尾畑さんのところに報告・情報が来ていない可能性もあります。

 

 

◆「教育プログラムはだめ」という極論を言わない方がいい

 

尾畑さんは「思考を変えようとする教育では効果がないことを意味します。」「「心」は教育できるものではありませんから。」などと言い切りますが、こうした決めつけは不要な対立をもたらすだけで不毛と言えます。

私は、①ジェンダー、家父長制を重視するフェミニスト系アプローチ、②個人的特性(個人的病理、個人的生育暦)を中心に暴力を理解する心理療法アプローチ、③相互作用的・人間関係的側面から暴力を説明し解決を提起する家族システム的アプローチ、その他、様々な手法やアプローチを組み合わせてやればいいと思っています

それぞれのやり方のなかにまた諸流派があり、それぞれに長所も短所もありますし、当事者にとってうまくフィットするとか効果があるのは、人によっても違う面があるからです。一人の加害者にいくつものアプローチが効果をもたらすこともあります。少なくとも「思考を変える」というアプローチを否定する必要はないでしょう。

尾形さんは、「問題行動をしなくなるためには責めたり教育したりアドバイスしたからって改善する方向には心が向かわないのです。」といいますが、

そもそも「教育」ということを悪く限定的にとらえすぎです。学校や社会人の教育、啓発などを全否定する必要はないでしょう。心理的な教育プログラムはいくつもあります。教育はすべて心理的な側面はあります。

教育にもいろいろな側面があり、ひどい教育もあると私も思います。教育のうち「説教、調教、考えの押し付け、洗脳」「主流秩序に適応させる場」「階級・階層・格差の再生産」のような面を批判することには意義がある場合もあるとおもいます。

 

しかし、教育は「責めるもの」「アドバイスするもの」と決めつけるのはミスリードです。そして個人的特性(個人的病理、個人的生育暦)を中心に暴力を理解する心理療法アプローチで、しかもそのなかで「問題解決型」を唯一意味があるかのようにいって、その他を低く扱うのは偏りすぎでしょう。NOVOやアウェアなどの「加害者教育プログラム」を「加害者を責めるもの」と決めつけるのは、実際を知らない批判です。

実際は、加害者を説教したり責めるというものではありません。まずは気持ちを聞く、加害者の側からの面も見る、加害者の中にDVの加害とは別の面も見てそこを尊重する、さまざまな手法やグループ討議などを通じて自ら問題状況の分析やDVをしてしまった自己理解に至るようにする、自己指導力・自己改善力を高めるなどのカウンセリングと学習の両面があるのです。そのほかに、被害者のことや社会構造や社会意識を学ぶ面、非DV的な関係性の練習の面など多面的な内容があります。DV行動の大きな要因である暴力容認感覚、ジェンダー感覚、ゆがんだ恋愛観、カップル単位意識などについて批判的に学び、それを学び落とします.

 

私は、加害者を性差別者だ(男性はだめだ、悪者だ)と決めつけて説教的に責めるやり方にはならないように注意することはいると思います。一方で、自分のしたことの影響の事実を見つめること――被害者の苦しみを知ること、被害者の新進の病的な状況まで理解すること、そうした事実に直面すること、ジェンダーの側面を認めていくこと、被害者のしんどい思いを聞くことは重要と思います。

悪い意味での「アドバイス」「批判」に注意しつつ、グループの仲間が自分の経験や学びを踏まえていろいろ意見を言うことには更生の点で意義があります。、その中には鋭い問題点の指摘やこういうやり方がいいよというアドバイスすることがあります。多くのセルフヘルプグループでは、ファシリは単なる進行役で、お互い匿名性で言いっぱなし、聞きっぱなし、無批判のルールで進行となっていますが、加害者更生教育グループは違います。実名で参加し、互いに考えを伝え、励まし合い、ときには批判もします。ファシリもたんなる進行役ではなく教育的側面を持ちます。非暴力になるという目的に照らして、暴力を容認するまちがった考えは認められません。

ポイントは「責めるだけ」などではまったくなく、教材や仲間の経験などから自分の加害体験を見つめなおし、グループの力に支えられて変わっていくということです。対等な立場でお互いが自分を見つめて語り、聴きあうという「対話」を重ねていくことに意義があります。

「グループによって蓄積されていった経験的実践的な知」というものは広く認められています。グループのメンバーであることによる「責任」「仲間意識」の面もあります。個人カウンセリング重視の人は、このグループの支え合いや「オープン・ダイアローグ的な対話」的な意義も含めた学習的効果を軽視・無視していると思います。

 

尾畑さんは「それから他所でDV加害者更生プログラムを受けたけど改善しなかったという方が何人もカウンセリングに来られていますし皆さん、気持ちも新たに本気で取り組んでおられますよ。」とのべて、他ではだめだったがうちにきて効果が出ているかのようなことを書いています。

 

しかしこれも歪んだ伝え方と思います。NOVOにも、精神科・心療内科などの病院に行った、個人カウンセリングに行った、カップル・カウンセリングに行った、でも変わらなかったという人がまあまあの数、来ています。ほかの地域の「加害者プログラム」に参加したがよくなかったという人も複数いました。でも、それは、「だからそこのやり方は効果がない」ということを証明しているわけではないのです。

あるところに参加した人のうち、効果があった人はNOVOに来ていなくて、効果がないと思ってNOVOに来た人が一部いるというように理解すべきでしょう。したがって、自分の少しの経験から、「他所のDV加害者更生プログラムでは変わらなかった、でも尾畑さんのカウンセリングに来て変わった」というのは、ミスリードする書き方です。もっと謙虚に、お互いのやり方を認め合ってともにDVを減らす活動をしていくべきと思います。

結論としては、上記したように様々なアプローチどれにも一定の効果があので、「自分のやり方だけが正しい」わけではないということでしょう。

 

◆「問題解決型の心理カウンセリング」の立場?

 

尾畑さんは「私は、問題解決型の心理カウンセリングを行なっている心理カウンセラーです。」と書いています。

→「問題解決型」という言葉を使うのは、モー・イー・リー, ジョン・シーボルト, エイドリアナ・ウーケン『DV加害者が変わる――解決志向グループセラピー実践マニュアル』(金剛出版2012)で示されている流派ということかもしれません。(それについては 私は書評で紹介していますので、そちらを参照してください。NOVOHPに掲載)

また「「無意識の感情レベルに届くことが大事」、「感情の深ーいところにアプローチするDV性格改善に特化した心理療法」ともいっています。

この立場をとるのは自由ですし、それも一定効果はあると思いますが、「問題行動は、思考で止められるものではありません」とまで言い切るのはいいすぎでしょう。

 

どのやり方も、DVという問題行動を改善するためのかかわりを行っているのです。私は少なくとも、以下の本のような多様なやり方が共存しあって、とにかくあちこちに多様なやり方で加害者プログラム(加害者対応)がなされることが大事とおもっています。

 

▼RP研究会編著『DV加害者プログラム・マニュアル』(金剛出版、20203月)

 ▼信田さよ子「DV加害者」(廣井亮一編『加害者臨床』日本評論社、2012年所収)

▼エレン ペンス、マイケル ペイマー編著『暴力男性の教育プログラムーードゥルース・モデル』(誠信書房2004年)

▼バンクロフト、ランディ『DV・虐待加害者の実体を知る』明石書店2008年)

▼山口佐和子[2010]『アメリカ発DV再発防止・予防プログラム――施策につなげる最新事情調査レポート』  (ミネルヴァ書房2010)

▼アラン・ジェンキンズ『加害者臨床の可能性――DV・虐待・性暴力被害者に責任をとるために』(日本評論社、2014年(原著1990)  

▼モー・イー・リー, ジョン・シーボルト, エイドリアナ・ウーケン『DV加害者が変わる――解決志向グループセラピー実践マニュアル』(金剛出版2012)

▼アウェア編『DV あなた自身を抱きしめて――アメリカの被害者・加害者プログラム』(梨の木舎2001年)

▼草柳和之『DV加害者男性への心理臨床の試み』(新水社2004年)

▼味沢道明・他『DVはなおる』(ギャラクシーブックス 2016年)

▼山口のり子『愛を言い訳にする人たち』(梨の木舎2016年)

▼松林三樹夫『立ち直りへの道 DV加害者カウンセリングの試み』(エイデル研究所2020年)

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◆まとめ

 

今回は尾畑さんの一部ブログの言葉に反論する形で、NOVOの加害者更生教育プログラムの考え方ややり方を少し紹介しました。

NOVOは、DVをいわゆる「病気」「依存症」とはとらえず、したがって「治療」するものともとらえていません。カウンセラーによる個人対象の狭義カウンセリングでもありません。講義を座学で聞く一方的な学習の場でもありません。

 

しかし、他の依存症との類似性もありますし、暴力的であるということはある意味「病的な言動をとってしまう」という状態とも言えますし、しんどい気持ちを聞いてもらって整理することで気づいていく面もあるので、DVを「直す」「治療する」「カウンセリング」という言い方を完全拒否するわけではありません。言葉のとらえ方次第です。

 

NOVOはDV言動をやめ暴力の責任と向かい合うための、グループで学び合う教育的・心理的プログラムです。教材を使い、またグループ内でのお互いの状況を語り合い検討しあい意見交換する中で、学びあいます。そこには様々な手法に基づく教材があります。日々新しく教材を作り続けています。女性ファシリテーターはときには、女性やDV被害者の代弁をします。加害者だけでなく、被害者にも面談し、双方の話を聞くことで、全体像をつかみながら、被害者支援のひとつの方法として加害者が更生し責任を取っていく主体となるように支援していくプログラムです。

目の前の人(加害者)個人の感情の対処の仕方だけを問題とするのではなく、その背後に被害者がいることを意識して、加害者と被害者、家族全体にとっての良い解決を目指します。それは必ずしも復縁(家族再生)ということではなく、シングル単位観点で、被害者の自己決定を尊重した「解決」です。

先ずは加害者はDVを学び、支配的言動をやめ、被害者の自己決定を尊重できるようになること、適切に責任をとれる主体になること、適切に謝罪していくことが大事です。

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NOVO以外にも様々なグループや個人が今後加害者にかかわるアプローチをとっていくことでしょう。政府もDV法を改正して加害者プログラムの受講義務化を数年後には進めるでしょう。今も加害者更生にかかわっている人やグループは複数あります。加害者への対応には、さまざまな方法・アプローチがあっていいとおもいますが、相手を知らずに誤解や無知や偏見で「あそこのやり方は程度が低い、効果がない」と批判するのはやめた方がいいと思います。

DVを減らす活動をともに担っていく仲間としてお互いを認め合ったほうがいいでしょう。その時に大事なのは、加害者を放置しない、一人にしない、暴発に追い込まないことに加えて、被害者の実態を踏まえ、被害者支援と連携して加害者プログラムを広げていくことでしょう。被害者や被害者支援の人々から、信頼されるような「加害者への対応」であることが大事かなと思います。

 

 

 

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