DV加害者へのかかわりについて

 

 

              

 

(あ)DVの情報提供・教育が必要

 

 この世の中にはDV加害者は数多くいます。被害者のいるところには、加害者もいるのです。もうすでにDV加害をしてしまった加害者、グレーゾーン程度の緩やかなDV的なことをしてしまっている人、加害者予備軍の人たち、皆に対して、DVではない恋愛観(結婚観、カップル観)を身につけてもらうよう、社会が働きかけることが必要です。

 

 「別れに同意はいらない。片方が好きでなくなれば関係は終わり。いくら好きでも相手が断れば諦めるしかない。相手が離婚したいならばそれを尊重するしかない。謝罪したから許せ、ではない。別れないのが愛情ではない。別れは裏切りではない。嫉妬・独占・束縛の権利はない。いくら付き合っていても(結婚していても)異性の友人はOKである」ということを多くの人が知っていくようにせねばなりません。

 

DVは昔からありましたが、DVという概念(それは人権侵害で駄目なことなのだという考え方)が社会的に広がらないと、それは認識されません。ある人がDVの知識を得て、それを通過して、「これはDV被害だ」「私は被害者だ」と認定できるようになります。それによって、それをもたらしたある行為はDV加害(その人が加害者)であるとみなされるようになります。

 

一般的に言えば、加害者は最初、抵抗、否定、抗議、怒りを示します。しかし外的(法的)圧力や学びを通じて徐々に「ああ、これは今はDVと言って、世間的に言って駄目なことなのだ」と自己認識するようになります。これは学習や社会の圧力(パートナーからの突きつけ)がないと自覚されません。

 

つまり、DVへの知識・理解(人権意識の深まり)がないとDVは他人事になりがちなのです。みえないのです。悪いことと自覚できないでやってしまう人がのさばり続けるのです。ですから加害者(予備軍を含む)に対して、DVの情報提供・教育が必要なのです。加害行為をしてしまった人への罰則/処罰も必要ですが、それだけではだめなのです。

 

このような基本を押さえるだけでも、総合的な加害者対応が必要ということは明白です。これは、いじめに対しても罰則に加えて、予防教育がいるのと同じです。しかし難しいのは、こうしたDV情報(いじめ情報)に触れることで、過去のつらい体験を思い出してしんどくなる人がいるという点です。

 

たとえば、NHK『あさイチ』という番組で、加害者対策も含めて「いじめ問題」を扱っていたとき、一部の視聴者から「こんな番組自体辞めてほしい」、「いじめの方法が広がるだけ」「大人、親が介入しても状況は悪くなるだけ」という反応がありました。また、「加害者のことなど考えるのでなく、被害者のことを考えてほしい」といった意見もありました。

 

こうした意見は、ある意味、被害者の厳しい現実の一側面を反映してはいますが、ここに表れていることは、いじめといった暴力問題に対する無力感、絶望感と加害者への恐れ、そっとしておくしかない、なにをしても無駄、どうしたらいいかわからない、といった無展望の感覚だと思いました。

 

こうした被害者の感覚には、個別的には十分な注意と配慮が必要ですが、それを社会全体として言っているだけでは、問題は少しも解決しません(解決とまでいわないとしても、いじめが減ることさえありません)。諦め、したがって被害の受容こそ、加害者が被害者や世間に持たせようとしている感覚なのです。

ですから社会としては、諦めてはなりませんし、本当は、適切な学習や支援や加害者への戦い、加害者更生のアプローチがあれば展望はあるのです。

早く相談し、逃げたいなら逃げたらいいし、あるいは強く(闘う)対応したらいいのです。できるだけ早い段階で相談して対処策を取ればいいのです。加害者に代わってほしければ加害者プログラムに行ってもらえばいいのです。

社会は、放置ではなく、加害者に毅然として対処していく必要があります。以上のことはDVについても同様にいえます。

 

 

 

(い)DV加害者は責任を取ることが必要

 

DV加害者について、拙著『デートDVと恋愛』で述べた基本原則を再確認しておきます。基本的に一定以上の暴力行為を行ったDV加害者は、犯罪行為を行ったのですから、社会的制裁を受けるのが基本です。

DV加害の程度にもよりますが、注意を受けたり、逮捕、裁判、処分・処罰、罰金刑、接近禁止命令、退去命令などを科される必要があります。保護命令を言い渡すときも出頭させて対面で、厳しく指導することが必要です。そして刑罰の一部あるいは刑罰の代替として強制的に、加害者(更正)プログラムを受けさせることが必要だと思います。

 

逮捕されていない場合でも、多くのDV加害者が加害者プログラムをうけるようにする社会的合意(多くの人がその方法があることを知り、それを選択するようになること)が必要と思います。DVを罰則付きで犯罪化するよう、DV法を含めた法体系の抜本改正が必要です。

 

DV加害の程度がひどくない場合や、法的処罰を受けていない場合でも、DV加害者は自分を変えていき、二度としない人物になっていく責任があります。今の社会には、DVをやめたいという意思をもつ人やDVを反省し、パートナーとの対等な関係を築きたいと思っている人もいるので、その人が自分を変えていくことを援助してもらえる学びの場(加害者プログラム)は必要です。

 

 

 

(う) 加害者を変えるのは誰か

 

DV被害者には、加害者を変えることも、変わるのを助けることも、基本的にはできません。被害者にできることは、加害者に「自分は変わらなければならない」と感じさせることだけです。加害者が本当に変わる可能性があるのは、被害者が「加害者(彼)なしでも生きられる」ということを示したときです。加害者がこの人(被害者)を失いたくないと思うときです。

 

DV加害者の変化を促す方法として別居すること/別れることが最も有効です。加害者を変えてあげようと被害者ががんばってしまうことは逆効果です

 

 加害者を変えるのは、治療する医者でもありません。DV問題は、基本的には「怒りのコントロールができない病気の人(精神疾患患者)」という個人の病気の問題ではないからです。加害者の多くは他の人に対しては怒りをコントロールできています。「病気だ」といってしまうことで、仕方のないことだ、本人の責任ではない、治らないとなってしまうので、基本的に病気のせいにするのは誤りです。もし病気の人であったとしても、被害者の安全が優先されるべきなので両者を引き離すことが大事といえます。

 

一部には、性格的問題、パーソナリティ障害、精神疾患、アディクションなどの問題が絡まっている場合もあります。DV容認的な誤った考え方の保持に加えて、病気・障害、強いストレス、性格上の問題、コミュニケーション能力の欠如、クスリの影響など多様な要素が関係している場合があるのは事実でしょう。しかし、その場合でも加害者に責任がないとは言えません。病気なら、病気ということを前提に、加害をしないように離れる責任があるからです。

 

加害者の行う虐待・暴力がアディクション(嗜癖、依存)である場合、本人自身を表面的に責めるだけでは通常は言動は変わらないでしょう。むしろそうなってしまった状況や自分の辛さを聞いてもらい、つらい人生環境だったんですねと共感してもらって、本人自身が自分の被害者性を認識できてこそ、自分の加害者性(責任意識)も認めていけるのだと思います。また本人自身が変わらざるをえないように、環境を変えることも重要でしょう(依存対象からの引き離し)。

 

暴力をしなくなることを目指す「治療」や「更正」といったことを「援助」というならば、被援助者は批判にさらされずに、自分の被虐待体験の過去を語る場をどこかで保障されることが必要であるといえます(信田『DVと虐待』p158-165)。

 

ただし、その「更正」「援助」行為は、DV被害者が行うべきこと(責任、義務)ではないし、行えることでもないし、行ってはなりません。第3者が行うべきものです。加害者からすれば、パートナーにではなく、第3者に助けを求めるべしということです

 

そして加害者は、表面的な反省や今後の関係の持ち方のテクニックを学ぶのではなく、自分の中にあるDV加害行為を正当化する考え方の誤り(ゆがみ)に気付き、DVにならない考え方(尊重、共感、非暴力、シングル単位、ジェンダー平等)を学ぶことも必要です。それ抜きの「治療」は、暴力容認になると私は考えます。

 

              (文責:伊田広行)

詳しくは、伊田広行著『デートDV・ストーカー対策のネクストステージ』(解放出版社、2015年)を参照してください。